『ノッティングヒルの恋人』の『アナ』を自分勝手に解釈してみた

 

赤く彩るポインセチア

雰囲気のあるイルミネーション

BGMは松任谷由実か山下達郎のカバーソング

 

そう、昨日12月25日(一昨日になっちゃったけど)は年に一度のクリスマス・・・

 

ではなく、ヴィクトル・ニキフォロフの誕生日です(Yuri on Ice より)。

 

そんな私は仕事を終え、彼の誕生日を祝った後、twitterを徘徊しながら(素敵な誕生日イラストがいっぱい!)クリぼっちを過ごしたわけですが、突然、なんだかとてもラブコメが見たくなったのです。

そこで選んだのが、そう、ラブコメの名作

 

 

ノッティングヒルの恋人

 

 ノッティングヒルの恋人 (字幕版)

 

 

1999年公開のこの作品、地球上の成人している人間ならば絶対に聞いたことがあると言っても過言ではないほどの名作映画です(あれ、20代の人も知ってるよね・・・?)。

実はちゃんと見たことが無かったので、この機会に見てみることにしました。

 

本作は、ロンドンのノッティングヒルで旅行書専門店を営むバツイチで頼りなさげな男性・ウィリアム(ヒュー・グラント)が、誰もが知るハリウッド女優・アナ(ジュリア・ロバーツ)と恋に落ちる、いわゆる現代版の「身分違いの恋」の話です。

 

ストーリーは、うん、王道。

ジュリア・ロバーツの演じる魅力的なヒロイン、特徴的で癖のあるキャラクターたち、ロジャー・ミッシェル監督によるポップで華やかな映像と王道すぎるラブソング。

まさに名作。

特にアナを演じるジュリアロバーツのかわいいことかわいいこと。

可愛すぎてそれだけでも満足ではあるのですが、見た直後の感想としては、ちょっとだけ物足りないかなあ、という感じでした(ぼろ泣きしながら)。

 

引っかかったのは、ヒロインであるアナがウィリアムに惹かれた理由。

ウィリアム視点で大女優が目の前に!という展開はとても面白いと思うんですが、アナ視点では、どうして恋に落ちたんだろうと、ちょっと気になってしまいました。

他の方の感想などを見てみてると、同じように思った方もちらほらいたようです。

 

しかし、よくよく考えてみると、ヒントは映画のそこかしこに隠されていていました。

そして、この映画の名言、

 

And don’t forget… I’m also just a girl, standing in front of a boy, asking him to love her.

 

 ここに集約していくわけです。

 

そこでここでは、「アナはなぜウィリアムを好きになったのか」という点を中心にアナの気持ちを私基準で解釈していきたいと思います!

 

名作なのでもしかすると既出の考察・解釈かもしれませんが、良ければ見ていってくださいね。

乙女心を知る参考になる・・・かもしれません(責任は持ちません)。

 

 

1. あらすじ(飛ばしてOK!)

 

先に述べたように、本作は赤字経営のバツイチ書店主と大女優の「身分違いの恋」を描いた作品である。

 

ヒュー・グラント演じるウィリアムは、様々な人間が行き交うロンドンのノッティングヒルで、旅行書専門の書店を営む優しい性格の(裏を返せば頼りなさげな)男性だ。

一方、ジュリア・ロバーツ演じるアナは、誰もが知るハリウッド女優で、映画に疎いウィリアムですら知っているほどの有名人。

この大女優アナがウィリアムの書店に立ち寄ったことで二人は出会い、その後、街角で飲み物をもってぶつかるという、もんのすごく古典的な、運命の再会を果たすのだ。

 

その再会で、オレンジジュースをぶちまけてしまったウィリアムは、自身の家へと招くのだが、そこで二人の関係は三段飛ばしくらいの勢いでぐいっと急速に近づいていく。

その後も、ウィリアムの友人も絡めて二人の関係は発展していき、ウィリアムはとうとうアナの部屋へと誘われる。すっかり舞い上がっていたウィリアムだが、そこでアナの恋人が来ていることを知らされ、アナに別れを告げて去る。

 

それ以降のウィリアムは意気消沈ぎみ。心配した友人から多くの女性を紹介されるものの、アナを愛していた彼の傷は深く、次の恋愛には進めなかった。

そんなある日、スキャンダルにより憔悴したアナは、ウィリアムの家へと訪れる。そこで二人の距離は再び近づき、とうとう一夜をともにして、その愛を確かめ合う。

ところが、同居人の失言でアナの居場所がバレてしまい、家の周りはマスコミの波。再びスキャンダルのネタにされ、アナはもう怒り心頭。今度はアナがウィリアムに別れを告げて去っていく。

 

月日は経ち、ウィリアムはアナを諦めようとはするものの、その想いを消すことができないでいた。ある日アナが再びロンドンに訪れているという知らせを聞き、ウィリアムはロケ現場へと駆け付ける。

そこでアナに待っていてといわれ、ウィリアムは撮影が終わるのを待つことに。しかし、アナがウィリアムを「過去の人」と言っているのを偶然聞いてしまい、ショックを受けたウィリアムはその場を立ち去ってしまう。

翌日、アナはウィリアムの書店を訪れ、贈り物とともに告白をするが、ウィリアムは「身分が違う」とその告白を断る。その言葉に、アナは傷つきながらも、「自分は女優の前に好きな男性に愛してもらいたいと願う一人の女の子である」と告げ、ウィリアムの店を後にする。

 

その後、アナとの別れを友人らに報告し、それを間違いではなかったと思い込もうとするウィリアムだが、同居人スパイクの言葉をきっかけに自分が間違っていたことに気づく。

そして、友人らに助けてもらいながらなんとかアナの会見会場へと到着し、ウィリアムは記者に交じって質問をする。「タッカー氏(ウィリアムのこと)がもし自分が愚かだったと気づき、膝まづいて考え直してほしいと言ったら、あなたは考え直しますか?」と。

それに対するアナの答えは「はい(Yes)」。そしてアナは、「今夜発つ」と既に答えていた「いつまでロンドンに滞在しますか?」という質問をもう一度させ、今度は「いつまでも」と答える。

 

シャッターの嵐の中、それを気にすることなく見つめ合う二人。

そうして二人は、寄り添いあいながら、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。

 

 

 

2. なぜアナは恋に落ちたのか?

 

上記の通り、この映画では、どちらかというとアナのほうからウィリアムにガンガンアプローチしていることがわかる。

アナは美人だしかわいいし、ウィリアムが魅了されることは納得だが、アナはいったいウィリアムのどこに魅了され、こんなにも惚れ込んでしまったのだろうか。

 

考えられる要因は三つある。

 

一つ目は「顔の好み」

ウィリアムの友人によると、今は崩れかけだがウィリアムはもともとハンサムな顔立ちをしていたらしい。ヒューグラントが演じていて大変顔はよいのだが、まあまあハンサムな男性という設定なのだろう。

もちろんアナが面食いというわけではないが、もしかするとウィリアムの顔はアナの好みのタイプで、最初から好感度はある程度高かったのではないだろうか。でなければ、わざわざ崩れハンサム(関係ないけど崩れハンサムってベホマスライムみたいな語感だな)という設定を出す必要もない(もちろん女性視聴者はかっこいいほうがいいとは思うが)。

身も蓋もないようなことを言うが、最初の好感度の高さは、その後幾度も出会ってしまう男性を「運命の相手」と思うのか、「ただの偶然」や「追っかけ」と思うのかどうかの分かれ目になるはずだ(特にアナは女優だし追っかけファンは多いだろう)。

 

アナは多くの顔の良い男性を選び放題だったので単に顔だけでウィリアムを選んだわけではないだろうが、アナが「運命」を感じるかどうかの一次試験に、「顔の好み」は役立ったのではないかと思われる。

 

二つ目は「やさしさ」

ウィリアムは頼りなさげではあるものの、優しい性格をしている。この性格は物語の至る場面で表現されており(万引き犯を注意だけで済ませたり、自身の書店の本なのに面白くないから買わない方がいいと助言するなど)、かつ美人なアナに対してがつがつ行くことはなかった。

かつての恋人に暴力を振るわれたことのあるアナにとって、強い男性というのはトラウマにもなったのだろう。その点、映画内で一度も怒鳴ったりしなかったウィリアムは、「運命の相手」の二次試験に合格したといえる。

 

 

三つ目は「アナを女優ではなく一人の女性とみていること」

上二つは、実は「運命の相手」の前提条件であり、ウィリアム以外にもいることが予想される。ではなぜ、アナはウィリアムでなくてはならなかったのか?

そこで重要となるのが、この三つめの要因だ

ちょっと長くなるので次の項にまとめたい。

 

3. 女優のアナとただのアナ

 

映画の中にあったとおり、アナはこの10年間プライベートのない生活を送っており、それにかなりのストレスを感じていた。それはほぼ全ての人間が彼女を「女優のアナ・スコット」として見ていたからだ。

それは、映画内に出てくるほぼすべての人間が表現している。

 

書店の万引き犯は、彼女がアナだと気づいた後すぐにサインを欲した。

ウィリアムの友人らは、彼女がアナ・スコットだとわかると大はしゃぎした。

レストランにいた男らは、アナを直接知らないにも関わらず、彼女に対する下世話な妄想を現実のように語った。

アナのアメリカの恋人は、人気俳優の恋人がデブじゃかっこ悪いと彼女を見世物のように扱った。

 

一方でウィリアムはどうだろうか。

 

書店では、万引き男がサインを求めたことでアナが有名人であることに気づいていたはずだが、その後も態度を変えることはなかった。

ジュースをこぼした後招いた家でも、アナに対して、女優である彼女と話すのではなく書店の客であり会ったばかりの人間として会話し、その中で「素敵だ」と伝えた。

家を出る際には、「it was nice to meet you.」と、初対面の人間として対応した。

そして、彼女の下世話な妄想をする輩どもには「彼女の生身の人間で、敬意を払うべき」と注意をした。

 

実は、ウィリアムだけが、最後の告白を断るときまで、彼女に対し女優ではなく魅力的な一人の女性として対応していたのだ。

 

そして、そんなウィリアムに対して、アナは女優としてではなく、ひとりの女性として心を開いていたと思われる。

 

映画のロケ現場での彼女は、きりっとしており、共演者に対してもどちらかというとはきはきと強い態度で出ている。サプライズが嫌い、というのも、おそらく女優のアナとしてなのだろう。彼女のこれまでの人生で、サプライズというのはスキャンダルのような悪いものばかりだったはずだ。

また、人気俳優の恋人に対しても、気まずいというだけでなく、とても気を遣っているようにみえた。彼女は人気俳優に「適切な女優の恋人」というものを、恋人の前でも演じていたように思える。

このような環境で気を許すようなことはできず、気の強そうな人気女優アナが生まれたのだろう。

 

一方で、ウィリアムに対する彼女は、柵を乗り越えて公園に入ったり下世話な男どもに一言言ってやったりと、自由奔放でやんちゃな少女のようなイメージだった。

おそらくもともとのアナは、運命を信じる少女のような心を持っていたのだろう。ホテルでの名前にカートゥーンキャラの名前を使ったりなど、元来の少女のような彼女はところどころで窺える。

あとどう見たってかわいい。ウィリアムといるときのアナかわいい。

 

つまり、今までアナは女優としてしか見られず、自分を見せられない生活に多大なストレスを抱えてきた。その中で抑えてきたただの少女の自分を、ウィリアムだけが見つけてくれたのだ。

これを「運命」と思えずにいられるだろうか。

 

こう考えるとあの名言もより理解できるだろう。

And don’t forget… I’m also just a girl, standing in front of a boy, asking him to love her.

この告白時セリフは、「女優である前に一人の女なのよ」と訳されることも多く間違いではないが、よく見てほしい。ここでは「woman」ではなく「girl」が使われているのだ。

アナもウィリアムもまあまあな年齢だと思われるが、ここでアナが「girl」を用いたのは、この運命を信じるようなただの少女として、ウィリアムに愛してほしかったからだろう。

 

そう考えると、今まで一人の女性としてアナを見てきてくれたウィリアムが、「身分が違う」と断ることが、アナをどれだけ傷付けたのか、想像に容易い。

おのれウィリアム。

しかし、それを「自分が愚かだった」と膝まづいて謝れるウィリアムは、やっぱり素敵だし、アナが考え直すのも納得だ。

  

 

4. まとめ

 

さて、映画『ノッティングヒルの恋人』のアナがなぜウィリアムに惹かれたのか、かなーり自分勝手に解釈してみましたが、いかがだったでしょうか。

20年前とはいえ色あせない名作。

特にこの時代は携帯がないので、それだけでもドラマが膨らんでたのしいですよね。

 

この映画は言い回しがとても凝ってて素敵なんですが、その中でもウィリアムと友人マックスとの会話で、

「アナは”女神”だ。神に恋した人間はどうなる?」

「破滅する?」

「必ずな」

という部分がリズムよくて好きなんです。

この会話って、ほんとアナの立ち位置を示していると思います。

 

アナは民衆にとって偶像なんですよね。

みんな、そこに人間がいるとは思わず、神として崇めている。

これはヴィクトルにも言えるんですよ(唐突な冒頭の伏線回収)。

皆神として崇めている。最初の勇利もそうです(YOI知らない方ごめんなさい。)

 

そして、神から人間になるためには、やっぱり人間としての「愛」が必要なんだな~と改めて思いました。

自分を一人の人間として見てくれる人間。それはアナにとって、まさしく「運命の相手」だったのでしょう。

特に女の子は、「運命」という言葉に弱いものですから。

 

というわけで、『ノッティングヒルの恋人』の自分勝手な解釈でした。

欲を言えばもうちょっとだけアナの心情をわかりやすくしてもらえたらよかったな、とも思いますが、これはこれで、解釈が捗るので楽しいです。

一度見たという方も、まだ見たことないという方も、良ければ一度見てみてください。

私も一度しか見てないので、もう一度見たらまた別の解釈が生まれるかもしれません。

 

それでは、また。